EZURIKO CHブログ

誕生日をたくさん重ねたからって挑戦をやめることはない!

A級戦犯東條英機

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A級戦犯東條英機は絞首刑の判決直後に、こんな言葉を残しました。
「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ。」

東條の罪状は、「平和に対する罪」であり、
そんな罪はそれまでありませんでした。

つまり、冤罪ともいえるようなものでした。

しかし、自分の命令1つで多くの国民を殺めてしまった東條は
こんな後悔の言葉を残して自分の罪を受け入れたのです。

ここまではよくネットにもTVでも紹介されている話です。

でも、次の日の事件を知る人は少ないかもしれません。
1948年12月23日*ついに死刑の日がやってきました。
東條は軽々と死刑台へと上がっていきます。
今から絞首刑にあう人はどんな気丈夫な男でも
看守に抱えられ、やっと十三階段を上がると言われます。

しかも、
死に臨んでの東條の歌(辞世の句)には誰もが耳を疑いました。

「さらばなり ういの奥山今日こえて
弥陀のみもとに ゆくぞ嬉しき
日も月も蛍の光さながらに ゆくてに弥陀の光輝く」

というものだったのです。

今の言葉で言うと、、、

「皆さん、さようなら。東条は、今晩、死んでゆくが、
いよいよ弥陀の極楽へ参らせて頂ける。なんと幸せ者か。」

という意味になります。

さら東條は、自分を死刑にしたアメリカに対してまで

「いま、アメリカは仏法がないと思うが、
これが因縁となって、
この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと
これもまたありがたいことと思うようになった。」

と、相手の幸せすら念じています。

つまり、最期に東條は、アメリカの幸せも願っていたのでした。

今日、東條英機というと、
日本を戦争に導いた極悪人というイメージで語られますが、
実際はそのような単純なものではないことが
このエピソードからも分かると思います。

それどころか東條は、
日本を守るために必死に戦争を回避しようとしていたんです。

その証拠に、日米開戦を昭和天皇に伝える際は何度も涙声となり、、
開戦の2日前には皇居の方を向き、正座で号泣しているのを
東條の妻、かつ子が目撃しています。

しかし、あなたもご存知の通り東條英機
努力は報われませんでした。

何故なら、アメリカは40年以上の歳月をかけて日本との戦争を
計画してきたからです。

その証拠に1897年…日露戦争の7年前に作られた
秘密の対日戦争計画書が存在しました。

実は東京大空襲も原爆も真珠湾攻撃も、
昔作られた秘密の対日戦争計画書の
1プランに過ぎませんでした。

この対日戦争計画書を知れば、
真珠湾攻撃でも経済封鎖でもない、
日米が戦争をした本当の理由が
見えてきます…

実はこの秘密の対日戦争計画書は
戦後50年間、アメリカ政府によって隠されてきました…。
なぜアメリカ政府はこの対日戦争計画書を
日本に知られたくなかったのか?

そこには、
たとえ、「すべてが終わった戦後」であっても、
日本人にだけは決しては知られてはいけない
不都合なことが存在したからです…

その秘密の対日戦争計画書の
中身を公開した書籍がこちらです…

『日本征服を狙ったアメリカの
「オレンジ計画」と大正天皇